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支援学級・通級への異物感

子どもが発達の特性に応じた個別の指導を受ける教育形態ですよね。自立活動や各教科の補充指導などの授業を受けることができる場所。

本来、活用できるリソースの一つですよね。

なぜ、活用しないのか?(させないのか?)…受容できない保護者がいけないのでしょうか?

①学校の外から見る価値観の修正

②学校内で感じさせる友人間での価値観の修正

③指導者の指導力の向上

④物理的・人的予算の拡充

⑤管理職の校内人事の価値観の是正

これらがまず必須です。

子どもにとって利益になるシステムも大人によって、正しく届かないっておかしいですよね。

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学校に行かなきゃダメ!?

「不登校は問題だ…」

日々、不登校状態におられる親子のご相談やサポートをさせていただいている私の体感ですが、現代日本の不登校に対するイメージは99%が、個の価値観に囚われ苦しんでおられます。

教育機会確保法があるとは言えども、まだまだまだまだ容認されていない状況です。国や自治体がいくら法整備や環境調整をしても、先生方が支援方法を変化させても、未だ「普通じゃない」扱いです。5年後?10年後?15年後?…いつになれば、何が変われば、国民の価値観は変化して、この多様性を認め合える時代が来るのでしょうか?

私が出会わせていただいている方々も、どこかでこの価値観に苦しめられ、故に子ども自身が更に二次被害を受けている。成長とともに社会的自立へ向かうとはいえ、誰も保証してくれません。親心は「いま」をなんとかしてほしいのです。おっしゃる通り。ごもっともです。

旧態依然とした教え込み教育に変化を促進しようとする教育委員会。しかし、一方で不登校状態にいるお子さんにとっては副作用が生じることも。重要なことは、「教育がどこを軸足に仕事(役割)をするか」であると思います。

「誰一人も取り残さない教育の推進」…きれいごとをキャッチフレーズにして、英才教育は止めてほしいものです。

発達障がいは「脳の個性」です。

個性を大切にするというキャッチフレーズと国の方針との乖離。矛盾することは必至です。

では、「モンテッソーリ教育」や「イエナプラン」、「シュタイナー教育」等を推進する「オルタナティブスクール」も「普通の選択肢」にまで広告してください。補助助成してください。

結局、公教育は「民間との連携は必須」と謳いながらも、公教育と民間教育との差別化を図りたいのです。

先見ある有望な教育者は既に気づいているのです。

だからこそ「教員不足」

退職された先生方をも巻き込み「非常勤教諭」の争奪戦。その方々には、もう退職金を支払う必要がありませんから…。若く有能な先生が「正規採用」すると、一人約3億円の未來投資。

どれだけ未来の宝である子どもたちに投資しない国なのでしょう。

年金を先延ばしにして、老後資金をためようとしている年配の先生方を批判しているわけではありません。経験と知見でお力のある先生が多数と信じたいです。

しかし、教師として生き抜いてこられた中で熟成された不登校への価値観は往々にして変わらないものです。

なんなんですか?再任用校長って。少なくとも校内で若い新しい価値観の邪魔をしないでほしいものです。

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不登校の子どもの進路

「答えは子ども自身の中にある」が答えです。

人は自ずと成長しようとする生き物です。ちゃんとやりたい事や夢、理想像を見出していきます。ここで問題なのは、周囲とのスピード感のズレです。

当事者本人が困惑中、焦りと不安。誰が決めたか邪魔をする“現代日本の普通”とかけ離れていく自分への苛立ち。本人が一番わかっているのです。

親として…我が子の登校渋りが始まり、ゲームや動画に没入し、生活リズムが崩れ始めていく…。良かれと思い言葉がけをすると、反抗的な言動……理解したくとも、我が子とは言えども別人格。本人の心の動きがどんどんわからなくなってしまいますよね。親心として本当に苦しいですよね。

心理士に相談すると「待ちましょう」…そりゃないですよね。

いつまで?待つだけでいいの?家庭の中でリアルにずっと我が子を見続けている親の気持ち。

助けてくれるの?…「誰か結果を出して!」って叫びたくなりますよね。

私は、「待ちましょう派」ではありません。

ご相談をお受けする数多のご家庭において、100ケースあれば100通りの支援策を模索します。当事者意識を優先して。すべて「他人事」から「自分事」に取り込みます。魔法使いではないので急変させる術など持ち得てはおりませんが、どの領域が有効か?大きなチーム編成がいいのか?小さなチーム編成がいいのか?またその人材(リソース)は?タイミングは?・・・頭が爆破しそうになるくらい考えます。平静を装って。

少なくとも、相談に来られる方々は「方針」「方向性」「技」等を求めに来られていると思っています。だから、一辺倒な「待ちましょう派」ではありません。

少し話が逸れてしまいましたが、例えば「昼夜逆転」。

学校へ行きたくとも行けない本人にとっては、昼の時間帯は、罪悪感に襲われる時間帯でもあるかもしれませんね。だから、何かしらに「没入」しておかなければ心が保てないのかも。以前お話ししたかもしれませんが、不登校の状態にある子どもほど、学校を人一倍意識しています。そして時間が長い。自己否定や自己嫌悪、罪悪感に襲われてしまうので、夜の方が安心できるのかもしれませんね。

ODの診断が出たから…とか、基本的に放っておけば大丈夫…などと乱暴なことを言うつもりは到底ありません。

もちろん状態を見つつですが、「明日の朝ごはん〇〇にそようかな?一緒に食べてみない?」など、ポジティブな声掛けをしてみるのもいいかもしれませんね。

中学卒業後、進学が全てではありませんし、あまりデータは好みませんが、中3で不登校を経験した子どもの約85%が高校に進学しているというデータがあります。

このデータをどのように捉えられ方は各々違うと思いますが、どのようにお考えされましたか。

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大人の無理解が問題!?

「不登校」は「大人の無理解が問題」と活動している団体がたくさんあります。

それはどういう意味でしょうか?大人が要因となり、家庭内や学校内、地域、社会で子どもを追い込んでいる状態がいけない。だから、子どもが委縮したり困惑したりして、自由な行動が抑制されているという意味でしょうか。

この理屈から言うと、保護者や先生、子どもたちを受け止める社会が変われば、世の中が明るく変わる…という暗示ですよね。

根底に「大人が無理解だから、子どもがそうなるんだ」と、「不登校の状態」におられるお子さんや保護者の方々をカテゴライズされているのです。

だからこそ堂々と「一点集中型の価値観」を掲げて、団体活動を広めていけるのです。

まず一点目、「不登校は大人の責任」と言ってしまう発想。実はとても危険です。この反対言葉は「不登校は子どもの責任」です。

一昔前、「登校拒否」という言葉ありました。これは、子どもが学校を自発的に拒否する、あるいは、子ども内の何かしらの要因が、学校文化と不適応を起こしているので登校できない…という意味合いで長年用いられてきた単語です。しかし、違いますよね。この言葉は、「学校へ行かないのは、子ども自身の内発的な要因」、つまり「子ども起因だ」ということになるので、「登校拒否」という言葉は、この世の中から消え去り、大分と久しいです。(詳しく前述したので割愛します。)

では、「大人の責任」だろう。…という風に簡単に結論付けて、「不登校状態」を対局対局で、評論すること、唱ってしまうこと、世に広めてしまうことが危険です。それが「不登校」を活用した団体の怖いところなのです。時代の社会問題的に取りざたされている問題は注目を浴びやすいです。しかし、イデオロギーも確立していない者たち(団体)が、外野から口出しすることは是非止めてほしいと願っています。ましてやお金儲けの手段にするなど以ての外です。

何かしらの出会いがあり、言い出すことは自由です。しかし、マスコミ(社会問題ネタとしてのターゲット)や社会的影響等を鑑みて、自身のイデオロギーが未成熟であるのであれば、オファーを辞退願いたいです。

不登校をキャンペーン化するのは止めてください!!

なぜなら、当事者にとっては繊細な課題であり、当事者が仮に30万人おられるのであれば30万通り(すべて異なる)のお悩みがあるのです。

我々、教育・福祉・心理・医療の分野の専門家から言わせると「お祭り騒ぎで当事者を惑わさないでいただきたい!」です。

いじめの構造と似ている構造もあるのです。

「過去、自分が不登校だった…」「過去、うちの子も登校拒否だったけれど、ここと出会って立ち直った…」的な。

つまり、「今は被害者ではありません」

あとは、冒頭からお話している「観衆」です。…いっちょかみですが、「応援しています!」「がんばれ!」「大人が変われば子どもも元気になる!」…みたいな……(これが実は一番たちが悪い)

あとは最後に「傍観者」です。・・・さて、この立場は、どんなひとたちがあたるのでしょうか?皆さんも考えてみてください。

長くなりましたが、大きな二点目。

最も優先されるべき、子どもの気持ち(心理)は、どこへ行ってしまったのでしょうか。

仮に、惑わされてイベントに参加したご家庭があったとしましょう。それを「よかったよ~」と漏れ聞いた子どもの心のやりどころはどうしたらいいのですか?「みんなで楽しみましょうよ」…素晴らしい心構えであるとは思います。でも、参加できない…参加したくてもできない…参加させたくても参加させれない…そんなご家庭のことを、少しでも想起されたことはおありですか?

学校も似ていますよね。もうすぐ運動会!体育大会!文化祭!…学級旗をみんなで作成したりして、楽しいですよね。・・・でもその時、あの子は、あの親御さんは?…

先生自身の心理の中で、想起されて本当のウオンとに沿ったフォローがなされていますでしょうか?

教育は万能なりではありませんよ。

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親として“登校渋り”どう判断?

不登校状態の始まり“登校渋り”。不登校状態の低年齢化を少しお話ししましたが、直に我が子から「学校に行きたくない…」とつぶやかれたら、本当に焦りますよね。大人は見通しがもてる(先が負に見える)ので、「ここをなんとか踏ん張らなくせては!」と必死です。

現代あらゆるところで取りざたされている「不登校」。極端な話、「=引きこもりの大人になる」みたいな不安。引きこもりの状態が是か非かの話は、少しだけ前述しましたが、ここでは置いておいて、不安感や焦燥感、緊張が家庭内に高まることは、親として当然の心理現象であると思います。

どこかで語る「不登校論者」(私も一部そう思われるかもしれませんが…)

「焦らなくていいですよ。」「本人が動くまで待ちましょう。」・・・

いやいや、家族(当事者)の初期の心理状態は、とても待てるものではないですよね。うちもそうでした。

先週お受けした相談のお母さんも焦っておられました。何度も言いますが当然です。

そこで、初回、1時間お話をお聞きした上で「取り合えず待ちましょう。」「今は焦らないで。」「お母さんの心理状態が伝わってしまうので。」…そりゃないですよね。

私が心がけるのは、イメージとして、100%傾聴しているようで、同時進行でその内、アセスメント(見立て)に40%、プランニングに40%、方向づけに10%、次回へのつなぎに10%のエネルギーを使います。

つまり、お母さん曰くの情報だけではわかりません。まずは、お母さんの見立てをしたうえで、お母さん支援をスタートさせていただきます。これが80%。

ご本人に新たな気づきを持って帰っていただかなければ継続できませんので20%のエネルギーを要するということです。

心理士のマニュアル通りに「待ちましょう」「落ち着いて」…。それでいいなら誰も来ないでしょ。

お願いですから、ネット上で「不登校専門家」等々とコラムを書いておられる評論家や大学関係者の方々の、一片を切り取った情報に迷わされないでください。よく読んでください。良きアドバイザーが書かれている文脈と文末を。…きっとそこには、「よくあるケースとして…」とか「検討してみてください…」など、伝わってくるはずです。(数字で断定している学者は論外。またその数字を操作している人間は大論外ですけど。)

さて本題。

判断は、子どもの発言そのものです。身体症状そのものです。

で、最も近しい絆あるサポーターがするべき行動は、何人探しをして叩きのめすことでも、ODだから仕方ないとして服薬に頼り続けることでもない、「中・長期プラン」を立てることです。

そして一言だけアドバイスさせてください。「おひとり」「家族内」のみならず、良き専門家をより多く社会的資源(リソース)として活用する仕組みを構築するよう、そちらにもエネルギーを使ってみてください。

怒りのエネルギーは枯渇します。サポーターが枯渇しては最たる主役に勇気が出ません。

一度ご検討くださると幸いです。

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休日の光景

本日は久しぶりに休日を取らせていただき、家族で昼食に出かけました。その際の光景があまりにも印象的でしたので、備忘録しておきます。

お手頃なファミリーレストラン。雑踏の中、やや聴覚的にも視覚的にもしんどさを感じながらも家族で出かけているため、我が家も逆にご迷惑をかけないファミリーレストランに入りました。

ご家族やカップルの中、約半数を占めていたのが中・高生の男子グループ。

しばらく遠目に観察をしていると、何より驚かされたのがお互いに話をしていない。みんな手元のスマホを見ている。何をしているのかとさらに全体を観察すると、みんなスマホゲームを集中してやっている模様でした。さらによくよく観察を続けると、たまに同時に笑ったり喋ったりしている。どうやらオンラインゲームをやっているらしい。

異様な光景に見えたのは私の主観ですので、否定をするものではありませんが、「そこでやる必要ある?」「集まる必要ある?」「席を待って並んでらっしゃる人がいるのに?」

スマホを否定しません。オンラインゲームも否定しません。

一つ。「せっかく会っているのだから会話しよ。」

二つ。「周りの状況判断して、行動しよ。」

先進技術の責任ではありません。

それらを使う人の心を育てていない教育の問題です。

私も含めて大人の責任です。

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学校復帰【普通へのあこがれ】

登校渋りが始まったとき、不登校状態が続いたとき、親として焦るのは当然です。しかし、子どもの不適応の理由や心理を置き去りにしたまま、ただ「学校復帰」だけを目指すと、前述した「校門前での痛々しい状況」のように、場合によっては事態を深刻化させることもあります。

これもまた前述しましたが、我々大人の意識(普通)をアップデートし、登校復帰だけを前提としない支援(アプローチ)が必要です。

子どもが不登校状態になる背景には様々な要因が潜んでいます。友人関係や先生との相性(折り合いの闘い)、いじめ、学習の遅れ、過度のプレッシャーなど、その要因は一つではなく複雑に絡み合っていることがほとんどです。

また、小学生の場合は、本人の発達特性が影響するケースも多くあり、昨今、不登校の低年齢化が喫緊の課題と叫ばれているのは必然であります。

就学前から特性が明らかとなり、療育等で支援を得ておられるご家庭も多数あり、その子どもたちの就学前から入学後に向けて支援計画が作成されているケースも多々あります。保護者の方々はたくさんのご苦労を重ねながら、支援学校への入学が良いのか、地域の学校への入学が良いのか等々、計り知れないご苦悩を経験されておられます。

ただ、ここで提言したいケースは、いわゆるグレーと呼ばれるお子さんたちです。

我が子の特性について、最も理解をされているのは保護者です。「何かしらちょっと変?」とか「最近よく言われている発達障がい?」など、幼少の頃から気づいておられます。…でも、「検診で引っかからなかった」「幼稚園の先生に大丈夫と言われた」等々、なんとなくわかっているけど認められない…認めたくない。。。

普通へのあこがれ

誰ですか?この日本で生きる上で「普通」を定着させたのは?。。。それは「教育」ですよ。

最近になって「多様性にの時代」とか言っている国。自分たちで「負」を築いてきた挙句に、今頃になって「正」を強制しようとしている。「教育の責任」…と急速にシフトチェンジさせようとしている。そりゃ困難な注文ですよ。なぜなら、学校の教壇に立つ教師自体がほとんどの方が「普通大好き」なのですから。

例えば、男女平等…今頃、制服選択制、「女子もズボンも選べますよ」…と学校は設定しています。どうですか?…選べますよという台詞自体が私はおかしいと思いますし、ズボンを着用している女子生徒を「普通」と認められるように世間はついていけていますか?

先生が抑えられてきた小学1,2年生の子どもが、3,4年生から表出せざるを得ない「現象」について、特別、自己研鑽し勉強されている先生以外の方が、さて理解できますでしょうか。

皆さんが教師ならどうされますか?…抑え続けますか?…放置しますか?…SOSを出してチーム学校として、その目の前の子どもについて必死になられますか?

さて、現在、どのような先生が日本に多いのでしょうか。

国の出している表向きのデータでは、「新規」不登校児童生徒が急増するのは、中学1年生と同様に、小学3,4年生です。これは何を物語っているのでしょうか。

子どもに「過剰適応」「トラウマ」を与えてでも、我々大人は、「普通であること」「周りと同じであること」を要求し、自分の安心を求めなければならないのでしょうか。

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3きょうだいの事例

兄(小6)弟(小5)妹(小3)、ご両親の5人ご家族。

小6のお兄ちゃんが4年生の頃から学校での不適応を起こし、登校渋りに…。学校もあの手この手で登校復帰を目指す。もちろんご家庭も原因探しとともに混乱、焦燥感を持たれるが、一向に本人の登校渋りは止まらない。「理由は?」…返答は「なんとなく。」「自分でもわからない。」…そうですその通りです。いじめがあるわけではない。先生との関係が悪いわけでもない。…理由を言語化できないのです。

さてその場合、大人の出番ですよね。言語化できない「なんとなく」の背景を見立てること。可能性を探ること。決して犯人探しに必死になってはいけません。可能性のある見立てを共有して、ご家庭と学校がより適切な支援のプランニングを立てることが重要です。

大人優位先行の見立て(アセスメント)や手だて(プランニング)ではいけません。ゆっくりじっくり落ち着いて耳を傾けること、観察することが大切です。主役は子ども。必ず不適応を起こさざるを得ない起因はあるはずです。

聴覚過敏によるしんどさ、周りからの視線に対するストレス、先生の指導が全て自分への𠮟責に受け止めてしまう過敏、教室の匂いに対する臭覚過敏、校舎の大きさに対する恐怖心、通学経路にある何かしらの不安、行事に対する不安等々、挙げようとすると限りなく可能性はあります。

そのお兄ちゃんの場合(小6)の場合、過程の中で医療でASDの診断を受け、より適切な支援計画の中で、現状は「登校刺激を避けましょう」ということになり、私のところへたどり着きました。保護者とのカウンセリングを経て、本人との面談、三者面談を通じて通所することになりました。

通常の登校時間と下校時間を避けるため、10時~15時までいつ来てもいつ帰ってもいいシステムを作って一定のカリキュラムを設定知っています。その子は、現在、毎日フルに通室して学習と他者との関わりに時間を有意義に活用してくれています。

さて、3年生の妹さん。小学校入学時にお兄ちゃんが家にいる状態。学校へ行く動機が上がらず登校渋りへ。

我々は二次障がいとして、その子どもが表出せざるを得ない現象(不登校やいじめ、暴力行動、自傷行為、非行等)をアセスメントする際、必ず家庭背景や養育歴(もっと言うと保護者の方の特性や養育歴まで)も見させていただきます。もちろんカウンセリングの中で許可を得て、個人情報厳守の範囲でですが。

学校のアセスメントは、兄に引きずられての全欠不登校というものでした。もちろん、ほぼ会ったことが無いお子さんの見立てですから、過程要因が先走るのも当然です。しかし、私が面談させていただいた結果、発達の特性(ADHDとASDの共存)を感じました。私は、WISCは出来ますが、医師ではないので診断はできません。だからこそ機関連携がとても重要となるのです。単機関(家庭・学校)は抱え込んで完結しないことがとても重要というわけです。

ご両親にフィードバックする際、発達の特性についてお話しました。

すると、ご両親もその点について可能性を疑っておられ、今後どうしたらよいのかを悩んでおられたとのことでした。。。その後、私から選択肢を頭のテーブルに乗せた上で、それぞれのメリット・デメリットをお伝えさせていただき、ご両親で話し合われた結果、一歩前へ進むことが出来ました。

因みに、現在、妹ちゃんも我々のところへ登録され、楽しく活発に過ごすことが出来ています。

その時、その安心が得られた前提で、はじめて今後どのように支援していくことかが考えられます。

「この子にとっての最善の利益か」を協議することができると思います。

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不登校という言葉

皆さんは「不登校」という言葉に違和感を感じたことはございませんか?

不登校は一昔前、登校拒否という呼び方をされていました。(その歴史については後日)…登校拒否…確かにきつい言葉ですね。拒否?誰が?…子どもの責任という意味合いですよね。つまり、あくまでも「子どもの意思で学校へ行かない」ということになります。

それは違う。。。確かに「子どもが悪いわけではない」

詳細は割愛しますが、そこで生まれた言葉が「不登校」。現在では当たり前のように共通言語になっていますが、「不」これは打消しの語。否定する意味です。

意味合い的には「不登校」…学校へ行っていない打消し。否定。

私はこの否定的な意味合いやイメージを植え付ける言葉にずっと違和感を感じています。言って私も社会的に使うので偉そうには言えませんが、私の私見では、「不登校」という言葉は、世間的には、まだまだ子ども自身や家庭の問題と捉えられているのではないかと思っています。

一例ですが、例えば「学校外選択」など、子ども(家庭)自身が、主体的に学校以外の学びの場所を選んでいるという風潮を世間的に広げることができるのであれば、少なからずとも心理的に救われる子どもはいるのではないでしょうか。

不登校という負のイメージが世間体として、子どもを苦しめ、保護者を悩ませている。その負の連鎖が更に状態を悪化させる。前述したように「不登校」というカウント、ラベリングは学校の先生がしています。教育委員会がしています。自身や保護者が不登校と思っている以下に「不登校」としてカウントされていない可能性が高いです。

不登校約30万人。喫緊の課題!と叫んでいる学者さんや評論家さんのネット情報に踊らされ、お願いですから、とにかく焦燥感を高めないでください。その焦燥感が状況を良くない方向に進めてしまう可能性があります。

学校へ行っていない。学校へ行きたがらない。「なぜ?」…当然の感情です。

だからこそ一旦落ち着いて。社会にあるリソース(人材や機関等)を活用しましょう。

そして、活用される側は、プロとしてしっかり向き合って丁寧に合理的に支援してください。それぞれの役割には、プロとしての知見とスキルを学んだ自信がありますよね。

先生の免許は、大学を卒業したら自動的に取得できます。。。それで終わり??

「先生」と呼ばれ始めたら経験を積むだけですか?。。。教育者としてのエビデンスはどこで学ぶのですか。

先生(公務員)は、法の下で仕事をします。指導要領を読んでいますか?生徒指導提要を読み込んで教壇に立っておられるんでしょうね。