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休日の光景

本日は久しぶりに休日を取らせていただき、家族で昼食に出かけました。その際の光景があまりにも印象的でしたので、備忘録しておきます。

お手頃なファミリーレストラン。雑踏の中、やや聴覚的にも視覚的にもしんどさを感じながらも家族で出かけているため、我が家も逆にご迷惑をかけないファミリーレストランに入りました。

ご家族やカップルの中、約半数を占めていたのが中・高生の男子グループ。

しばらく遠目に観察をしていると、何より驚かされたのがお互いに話をしていない。みんな手元のスマホを見ている。何をしているのかとさらに全体を観察すると、みんなスマホゲームを集中してやっている模様でした。さらによくよく観察を続けると、たまに同時に笑ったり喋ったりしている。どうやらオンラインゲームをやっているらしい。

異様な光景に見えたのは私の主観ですので、否定をするものではありませんが、「そこでやる必要ある?」「集まる必要ある?」「席を待って並んでらっしゃる人がいるのに?」

スマホを否定しません。オンラインゲームも否定しません。

一つ。「せっかく会っているのだから会話しよ。」

二つ。「周りの状況判断して、行動しよ。」

先進技術の責任ではありません。

それらを使う人の心を育てていない教育の問題です。

私も含めて大人の責任です。

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学校復帰【普通へのあこがれ】

登校渋りが始まったとき、不登校状態が続いたとき、親として焦るのは当然です。しかし、子どもの不適応の理由や心理を置き去りにしたまま、ただ「学校復帰」だけを目指すと、前述した「校門前での痛々しい状況」のように、場合によっては事態を深刻化させることもあります。

これもまた前述しましたが、我々大人の意識(普通)をアップデートし、登校復帰だけを前提としない支援(アプローチ)が必要です。

子どもが不登校状態になる背景には様々な要因が潜んでいます。友人関係や先生との相性(折り合いの闘い)、いじめ、学習の遅れ、過度のプレッシャーなど、その要因は一つではなく複雑に絡み合っていることがほとんどです。

また、小学生の場合は、本人の発達特性が影響するケースも多くあり、昨今、不登校の低年齢化が喫緊の課題と叫ばれているのは必然であります。

就学前から特性が明らかとなり、療育等で支援を得ておられるご家庭も多数あり、その子どもたちの就学前から入学後に向けて支援計画が作成されているケースも多々あります。保護者の方々はたくさんのご苦労を重ねながら、支援学校への入学が良いのか、地域の学校への入学が良いのか等々、計り知れないご苦悩を経験されておられます。

ただ、ここで提言したいケースは、いわゆるグレーと呼ばれるお子さんたちです。

我が子の特性について、最も理解をされているのは保護者です。「何かしらちょっと変?」とか「最近よく言われている発達障がい?」など、幼少の頃から気づいておられます。…でも、「検診で引っかからなかった」「幼稚園の先生に大丈夫と言われた」等々、なんとなくわかっているけど認められない…認めたくない。。。

普通へのあこがれ

誰ですか?この日本で生きる上で「普通」を定着させたのは?。。。それは「教育」ですよ。

最近になって「多様性にの時代」とか言っている国。自分たちで「負」を築いてきた挙句に、今頃になって「正」を強制しようとしている。「教育の責任」…と急速にシフトチェンジさせようとしている。そりゃ困難な注文ですよ。なぜなら、学校の教壇に立つ教師自体がほとんどの方が「普通大好き」なのですから。

例えば、男女平等…今頃、制服選択制、「女子もズボンも選べますよ」…と学校は設定しています。どうですか?…選べますよという台詞自体が私はおかしいと思いますし、ズボンを着用している女子生徒を「普通」と認められるように世間はついていけていますか?

先生が抑えられてきた小学1,2年生の子どもが、3,4年生から表出せざるを得ない「現象」について、特別、自己研鑽し勉強されている先生以外の方が、さて理解できますでしょうか。

皆さんが教師ならどうされますか?…抑え続けますか?…放置しますか?…SOSを出してチーム学校として、その目の前の子どもについて必死になられますか?

さて、現在、どのような先生が日本に多いのでしょうか。

国の出している表向きのデータでは、「新規」不登校児童生徒が急増するのは、中学1年生と同様に、小学3,4年生です。これは何を物語っているのでしょうか。

子どもに「過剰適応」「トラウマ」を与えてでも、我々大人は、「普通であること」「周りと同じであること」を要求し、自分の安心を求めなければならないのでしょうか。