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子どもを大切にする国?

学校の役割は「学習」と「コミュニティ」。この二つを他で補えるのであれば、学校へ学校へ行かなくてもいいですよね。

二つの機能を「学び」と「成長」あるいは「自立」という言葉に置き換えるのであれば、フリースクール等の民間施設や民間団体、極論、親御さんが関われるのであればご自宅でもいいんです。つまり、学校以外でも「成長」することはできるのです。

とはいえ、学校を否定しているわけではありません。私自身も過去、教壇に立っていた身として「不登校状態のお子さん」に「学校復帰」を願っていました。(当時は、法整備もなくそこに注力する法人も少なかったですが…)

学校には行かなくて「も」いいという考えです。不登校は選択肢の一つ。学校へ行きたい子は学校へ行けばよい。学校へ行かない子は学校へ行かなくてもよい。問題は、学校行きたいけれでも行きにくい子どもの存在です。行かねばならぬのに行けない。登校することを重圧と感じ自分を責めてしまう子どもの存在です。だれの価値観で生きているのか?生かされているのか?何を求められているのか?…考えさせられてしまいます。

「自分は自分の主人公」のはずです。

子ども自身が学校へ行きたがらないのであれば、無理に行かせる必要はありません。不登校の状態にならざるを得ない要因は千差万別です。机上で勝手にアセスメントしたような感じになり、人の人生をなんとなくプランニングしないでください。学校はそのような「作業」を「ケース会議」として行っています。もちろん、「その子どもを救ってあげたい」…気持ちは尊いですし、ありがたいです。しかし、その会議に居ない子どもの「現在の心理状態」に本当に耳を傾けておられますか?心は止まりません。先述したとおり、不登校状態のお子さんほど、心のスピード感は速いものです。先生方が、他業務を多忙に繰り返しされている正にその時もその子の心は波風高く動いているのです。先生を責めているのではありません。先生の体も一つしかありませんので。

では何が…あえて言いますが「人材」「時間」「場所」…つまり、教育予算です。各自治体によって差異はありますが、ご自身の住まわれている自治体の予算の中で「教育予算」がとれだけ使われているかご存じですか?丁度、9月ですので「令和7年度予算議会」が行われる時期です。

誰のための予算決議でしょうか。

子どもに投票権はないのです。

大人は仕事や生き方、投票もそうです…自分で選べますよね。…子どもはいかがですか?

そして、困っているお子さんを抱えていらっしゃる保護者の声は自治体や国に本当に届き相手にしてもらえているでしょうか?

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痛々しい光景

先日、学校訪問する際、校門の前で泣き叫ぶ子供の声…

手を引っ張り校門へ入れようとされているお母さん。子どもになにやら語り掛けてなだめようとされている先生。静止すると下を向いて涙を拭くお子さんですが、大人がアクションを起こすと途端に泣き叫ぶの繰り返し。

お母さんや先生のお気持ちもよく理解できます。(その後のスケジュールもありますし…)しかし最も最優先されるべきことは、そのお子さんの心模様ですよね。子どもの事情です。

子どもの中には、少数かもしれませんが現実的に、学校に不自由さ(不必要さ)を感じ、自ら学校という選択肢を外す「積極的な不登校」の子どもいます。しかし、ほとんどの子どもは、友だちや先生との関係でうまくいかない、過敏、大集団での不適応等の理由で学校に行くことが出来ず、自らに深い罪悪感を感じています。

「なんでみんなと同じことができないんだろう」「自分はダメな存在なんだ」と、自分を傷つけてしまう子どもたち。(本当は大人のせいなのに)

そんな子どもには、是非、まずは「あなたは悪くない」「あなたがおかしいんじゃない」「大丈夫」と見守り、支える大人の存在と出会わせてください。お母さんがすぐに出来なくてもいいんです。ピンチヒッターでもいいんです。逆に言うと、混乱されているお母さんに「落ち着いて」「大丈夫」「どっしり見守ってあげて」と言っても土台無理な話です。社会のリソース(資源)を活用するよう視点を変えてください。

愛着対象はピンチヒッターでも大丈夫です。お母さんが一旦、休息をとってください。

親子の愛着がピンチヒッターに負けることはありません。

「保護者の役割はとても大きい」というセンテンスをよく耳にされると思いますが、「保護者が全てです」とか「保護者の責任は大きい」という意味ではありません。そういう勘違いしたインプットをしてしまうと場がびくケースが多いです。専門家だけではなく、ママ友でもいいと思います。私が関わらせてきた沢山のお母さんにお聞きすると、ママ友とのランチ、お茶タイムもとっても大きな意味があることが多いらしいですよ。

さて、先生はいかがでしょうか。

「私がなんとかしてあげる!」「私に力量がないから…」と力んであられませんか?

同じことですよね。

学級経営最優先で学校に来ていない子は二の次と思っておられる先生はお話になりませんが…

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②不登校の子どもそれぞれの状況に応じた支援

「不登校の子どもそれぞれの状況…このブログではたしかに「不登校の支援」について注力していますが、今回に記事では、不登校であろうがなかろうが、「子どもそれぞれ」について書かせていただきたいと思います。

欠席29以内であれば、統計上「不登校」ではありません。そして、以前の記事で書いた「長期欠席」と「不登校」カウント、誰がどのように?誰の評価で?…等々、鑑みていただければ、世の中で騒いでいる「不登校約30万人」「10年連続増加」…

私見でご批判を頂戴するかもしれませんが、現在、その統計の仕組みど真ん中で働く私に言わせれば、疑問だらけで厳しく言うと既定路線です。しかし、学者さんや評論家等々、ネット内で論じられている数字はそれをベースに語られています。そりゃそうですよね。その数字に頼って論ずるしかないからです。でもこのブログを読んでいただいている方々は違いますよね。現実実態に目を向けてくださっていると信じています。

ごめんなさい。なにやら悪態をついているようで反省です。

本来述べたかったキーワードは「平等」と「公平」です。

公教育の中で、とある某A市の取組で「中学生の主張」というプレゼン大会があります。とあるB市では「ディベート教育」の推進というものを掲げておられます。

支援学級在籍(知的・難聴・言語・自閉情緒・肢体不自由・病弱・弱視)の児童生徒の参加する権利は?学力に困難さを持っている児童生徒の権利は?発達障がいを持っている児童生徒の権利は?様々な理由で学校へ行っていない児童生徒の参加するする権利は?

公教育ですから平等に告知はされていると信じたいですが、公平に参加することができるようなチャンスは与えられているでしょうか。また、一人ひとりそれぞれに適切なアプローチ(支援・配慮)はされているのでしょうか。

標準の子どもが見える風景について、身長が低い理由で見えない事実に対して、踏み台を用意してもらえているのでしょうか。

もちろん取組の是非を評価しているのではありません。得意分野を更に伸ばしてく仕掛けはとても有意義であると思います。しかし、大会形式にして競争させる必要があるのでしょうか?

その時間…自己肯定感を下げている子どもに対してどんなお得感のある学校生活の価値があるのでしょうか。

「平等」は、大人先導の企画に、みんな揃って「いっせいのうでっ!」

「公平」は、やる前に「これで嫌な気持ちになる子はいないかな?大丈夫かな?」って、子どもたち自身に考えさせる、考えてもらう時間と場所を設定することではないでしょうか。

私は「公平」を大切にしたい人間です。

みなさんはどう思われますでしょうか?

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親御さんの気持ち…

我が子が不登校という壁にぶつかり、不安や焦燥感でいっぱい…当然ですよね。我が子にがぎって…と思わせる現代教育の当たり前や普通という目に見えない圧力が、お子さんや親御さんを苦しめる。ご近所の世間体、職場に迷惑をかける等々、なぜ苦しんでいるご家庭を更に苦しめる世の中なのか。これには日本の教育の歴史にありますが詳しくは機会があれば述べさせていただきますね。

でも、今は「学校復帰」以外にも沢山の選択肢がインフラとして用意されている時代です。活用するまでの決断には相当の時間が要されるケースが多いですが(日本の普通という誰規準か不明の価値観故)、それら選択肢の中から、自分の進路の「納得解」を主体的に決めるのは子ども自身です。選択肢を子どものテーブルに、大人が事前に取捨選択せずに選択カードを提示できるか否かが大切であると思います。

親御さんに出来ること、それは「子どものため」ではなく「子どもにとって」を考えることです。

初めて述べますが、私自身も我が子の不登校の壁に直面した経験ある一保護者です。不安、混乱、焦燥感等でパニック状態でした。恥ずかしながら親子間バトルをしてしまった経験もあります。うちの子の場合は、張りつめていた糸が必然的に突然切れたようなケースでした。中学2年生からパタッと行かなくなり結局卒業まで不登校でした。(その歴史についても機会があれば…)

結論「正解は子どもが自分でつくっていくもの」

「学校ってなんだろう」「仕事ってなんだろう」「教育ってなんだろう」「親ってなんだろう」「子育てってなんだろう」など様々な視点で自問自答を繰り返していました。さらに、自分自身の価値観(ものさし)を振り返り、あらためて、その一つひとつを見つめ直し始めました。その過程の中で、自分のものさしを子どもに当てはめるのではなく、子ども自身の感性や特性を大切にして、子どもの価値観を育んでいってほしい、真っ白なキャンパスを自分色に染めて生きていってほしいと思えるようになったのです。

「この子が笑って生きているだけでいい」という価値観を学び、気持ちが楽になりました。

もちろん学校に行くことで得られる経験やメリットも沢山あると考えていますが、その頃の私たち家族にとって精神衛生上もっとも必要な選択だったと思えています。現在、作業療法士として病院に就職し、奮闘しながらも楽しそうに自分の人生を自分らしく生きさせていただいています。

人生の「正解」は誰にもわかりません。だからこそ、自分が主体的に「選んだ道」を正解にしていけばいいのではないでしょうか。

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①すべての子どもたちが安心して教育を受けられる学校環境の確保

「すべての子どもたちが」…私が思う「誰ひとり取り残されない」ということですね。誰ひとりですよ。現実いかがでしょうか。

「安心して」…私が思う安心ということは、自分はここにいていい。自分はこのファミリーに守られ守っている。所属感、帰属感…「揺るぎなく何ものにも侵されない心の安定」だと思っています。現実はいかがでしょうか。「友だち地獄」(筑摩書房)で、ある中学生が、「中学校の教室は、まるで地雷原のようだ。地雷を踏んだ(=空気を壊すこと)ら、教室にいられなくなる」と述べています。

誰が地雷を除去してくれるのでしょうか…いや、誰が誰らがするのでしょうか。

決して先生を責めているのではありません。しかし、教室において〝しかけ"が出来るのは先生ですよね。教室は一定時間の居場所。子どもたちはSNSの世界でも生きている。…難しい課題です。

「学校環境の整備」…私が思う整備とはハード面ではなくソフト面がより大切だと思っています。

要するに「魅力ある学校」ですよね。子どもが主体的に魅力を感じれば自ず気持ちが向くはずです。

子どもからすると「通いがい」親からすると「通わせがい」があるといいなと期待するばかりです。

そして追記するわけではありませんが、先生にとっても「働きがい」がある学校が素敵ですよね。

みなさんの想う素敵な学校って、どんな学校ですか?